幽霊に取り憑かれた花子

統合失調症患者の妄想と現実

博物館に行った。詩「生きてる価値」。

 こんにちは。花子です。

 

 今うちのマンションで大規模修繕をやっています。足場組みが土曜日あたりうちのベランダに来そうだったので、母と父の仕事場に避難することにしました。結局予定通りに進まなかったのか、うちのベランダまでは来なかったのですが。

 土曜日は6時ごろ起きて、ひとりで朝散歩に行き、それから母と出かけました。まず珈琲店でモーニング(バタートーストと黒糖ミルクコーヒー)を食べ、父の仕事場へと向かいました。途中スーパーでお茶を買い、父の仕事場で一息つきました。それから近くの博物館に行きました。母は公園にでも散歩に行くかと言っていましたが、暑いので、涼める博物館がいいと思ったのでした。しかも障害者手帳を持っていたら、博物館は同伴者1名までタダなのです。だから私と母はタダで展示を見て回ることができました。

 展示は江戸時代の書や絵を書く人の作品や明治時代に活躍した画家の作品など様々でした。江戸時代の人は3歳からもうすでに書を書いていたらしく、神童と呼ばれていたようです。その時の作品も展示してありました。でも全体的に見て、正直上手いのかどうか分からないというのが本音でした。もう一つの展示は絵が上手くて圧倒されました。旅をするのが好きだったらしく、絵葉書もいっぱいあって、とても楽しかったです。

 途中展示室の外の休憩室で休みました。もうここでは大きな声で喋ってもいいと思い、母とベラベラ喋っていたら、職員さんに、外まで声が聞こえているから、もう少し小さな声で、と言われてしまいました。博物館ではどこであっても大きな声で喋ってはいけないと学びました。

 それからパン屋でパンを買い、父の仕事場で食べて、ゆっくりしていました。母とアルバムを見たりして過ごしていました。兄も来ていたので、晩ご飯は家族4人で定食屋で食べました。

 とても楽しい1日でした。

 

 さて、今日は詩を書きます。

「生きてる価値」

生きてる価値ってどうやって決まるのだろう

他人が決めるものなのかもしれないし、もとからあるものなのかもしれない

 

でも他人が決められるものだとして、「お前なんかいらない」と言われたら、生きてる価値はなくなってしまうのだろうか?

いやそんなことはない

たとえそう言われたとしても自分は存在している

決して消え去らない

それだったら生きてる価値は他人には決められないんじゃないだろうか

 

でももとからあって、自分自身が決められるものだとしたらどうだろう?

果たして自分ひとりだけで自分の価値を感じられるだろうか?

やっぱり人が必要としている時、人の役に立っている時などに、自分は存在価値があるのだと感じられるんじゃないだろうか

 

でも何もしていなくたって、役に立っていなくたって、大切な人には存在していてほしいものだ

大切だというだけで存在価値はあると言えるだろう

孤独な人は自分の存在価値が分からないかもしれない

 

誰にでも存在価値はあると言いたいところだが、現実問題そうだと言えるだろうか?

街を歩いていて通り過ぎていく見知らぬ人は自分にとって存在価値のある人と言えるだろうか?

いや正直なところないと言ってもいい

だって今もこの世界のいたるところで命がなくなっているんだろう?

その人達の存在価値を感じたことがあるのか?

いや誰の存在も感じたことがない

 

やっぱり自分の価値は大切な人がいるかいないかで決まるのかもしれない

家にも職場にもそれ以外のところにも大切な人がいて、その人達が必要としてくれていたら、自分は存在していいんだと思える気がする

自分の存在価値は誰かがいて、そこから自分が作り出していくものなんだと思う

 

でも誰もいなくなっても、自分ひとりだけになっても、自分はこの世に存在していいんだと思いたい

生きてる価値があるかないかなんて考えなくてもいいような生き方をしたい

だってこの世が私を必要としていなくても、私がこの世を必要としているんだもの

 今日はここまでです。

 

 最近の幽霊さんは相変わらずです。手足を震わせてくるぐらいです。もうすぐいなくなってほしいです。早く楽になりたいです。