幽霊に取り憑かれた花子

統合失調症患者の妄想と現実

茶原郷祭りに行った。詩(のようなもの)「シーシェパードについて」。

 こんにちは。花子です。

 

 この前の土曜日に母とふたりで京都の和束町の茶原郷祭りに行ってきました。茶原郷祭りに行くのはこれが4回目ぐらいです。目的は天空の茶会で、急な階段を登ったところにある小さな茶室でお茶をいただくというものでした。それは定員6名で、事前申し込み優先だったので、父に申し込んでもらって行きました。母がもうこの階段を登れないと言うくらいになるまで行こうと思います。

 お茶のインストラクターの人がお手伝いの高校生ふたりと茶会を開いていました。まずてん茶というのをひとつそのまま食べさせてくれました。てん茶は抹茶のもとになるもので、それを石臼で引いたら抹茶になります。そのてん茶は特別なもので、10周年記念に特別に用意されたものでした。それでお茶が飲めるのは今回限りだそうです。そのまま食べると香ばしい感じがしました。

 色んなお話を聞きながら、お湯が冷めるまで待ち、丁度いい温度になったらまず一煎目を入れてくれました。全然苦くなくて、甘くておいしいのです。次は一煎目よりも少し高い温度で、二煎目を入れてくれました。一煎目よりちょっと苦味が出てるかなという感じでしたが、それでも甘かったです。それから今度は抹茶を入れてくれました。水で溶いてからお湯を入れて泡立てていました。それも今までに飲んだことのない、甘みのある抹茶でした。その時にお菓子をいただいたのですが、それはあまりおいしくなかったです。最後にまた三煎目のてん茶を入れてくれて、おしまいでした。

 また来年も行けたらいいなと思います。それまでに毎日歩いて、母には足を鍛えてもらいたいです。たぶんまだ行けるでしょう。来年も楽しみです。

 

 今日は第1月曜なので、詩のようなものを書きたいと思います。

シーシェパードについて」

シーシェパードの人達はオージービーフをたらふく食って、太地の人にクジラを食うなと言いに来る

太地には昔からクジラを食べるという文化があるのに、それを無視していきなり獲るなと言う

そしてそれまでクジラでまかなっていたところをすべてオージービーフで埋め合わせましょうとは言わない

クジラ漁ができないことで困ってしまうすべての人達にオージービーフを配りますぐらい言ったらどうなんだ?

 

クジラは知能が高いからかわいそうだなんて言うけど、牛だって同じ生き物だ

かわいそうとは思わないのか?

小魚だって豚だって同じ生き物だ

動物は何だってかわいそうじゃないのか?

 

それに私は人間だからこう言うけれども、一番かわいそうなのはクジラと密接に関わっている太地の人達ではないか?

クジラが食べられないことによって、食べるものが少なくなって、栄養失調で死ぬ人が出るとしたら、それはかわいそうじゃないのか?

クジラ漁ができないことで生活苦に陥り、そのせいで食べていけなくなって死んでしまう人がいたら、それもかわいそうじゃないのか?

人間はクジラより知能が高いのだ

かわいそうだと思わないか?

 

かわいそうだから食べてはいけないとなったら、世界中の人はみんなベジタリアンにならなければならない

でもそういうわけにはいかない

何も太地の人はクジラ殺しを楽しんでいるわけではないのだ

感謝して食べているのだ

オーストラリア人がオージービーフを食べている時と同じなのだ

 

太地の人にクジラを食べるなと言うのなら、そっちだってオージービーフを食うなよと思った

口で言うだけなら簡単だ

でも本当にクジラ漁をやめさせたいなら、クジラを獲らなくても生きていけるようにもっていくという行動が必要なんじゃないのか?

口と行動が一致してこそクジラ漁を本当にやめることができるのだろう

 

でももうそっとしておいてほしい

その土地にはその土地の生き方があるのだから

 詩とは言えないかもしれませんが、詩のようなものはここまでです。次回からまた妄想の続きです。

 

 最近の幽霊さんはちょっとまたマシになっているかもしれません。今ブログを書いている時は、忘れていられるほど何もありませんでした。でもまだ震えは続くと思います。デイケアの人も手が震えていても、日常生活を送ることができています。私も死ぬほどはつらくありません。こんなかんじで私の人生過ぎ去っていくのでしょうか。幽霊さんがいなくなることに越したことはないのですが。