こんにちは。花子です。
昨日は節分でしたね。私は高校生の頃、家族4人で神社の節分祭に行ったことがあります。色んな物を食べたのですが、とりわけ印象に残っているのが、たまごせんべいです。なぜかと言うと、たまごせんべいのたまごを制服のスカートにこぼしてしまったからです。お母さんに怒られるかとビクビクしていたのですが、お母さんは黙ってティッシュで汚れを拭いてくれていました。家族4人で節分祭に行けたのもこれが最初で最後です。もう行きたいとも思いません。
さて、なぜ私の名前が花子なのかはまだ説明してませんでしたね。適当に決めたかのように思われるかもしれませんが、違います。それは私の大好きな神聖かまってちゃんの曲の中に花子や花ちゃんという名前が出てくるからです。一時期私は神聖かまってちゃんのの子さんと話がしたくて、の子さんの立てた2ちゃんねるのスレッドにはなこという名前で書き込みをしていました。その後神聖かまってちゃんの避難所に行き、の子さんのスカイプ名を教えてほしいと頼んでいました。いまいちスカイプがどんなものか分かってなかったのですね。スカイプ名さえ分かれば通話できると思い込んでいたのです。しばらく書き込んだ後、の子さんはスカイプをやっていないのだと教えてくれる人がでてきました。そこで私はの子さんとのスカイプをあきらめました。その時2ちゃんねるにいた人にもこのブログを読んでもらえたらなぁと思います。また詳しいことはおいおい書いていくので、もうしばしお待ちを。
今日は第1月曜なので詩のようなものを載せていこうと思います。これは病気だからできた詩であるというわけではありません。それよりももっと奥深くにある、私の根っこになる部分からでてきた詩です。
「私にはできない」
私には世界を救うことはできない
今の生活に不満はないし、日本を良くしようなんて思わないからだ
私には人を助けることはできない
私にできることは自分ひとりの世話をすることだけだからだ
私は人の命を救うことはできない
医者になんかなれないからだ
過去を変えることはできない
どんな過去があったとしても、今の現状に不満はないからだ
私には働くことができない
働きたいと思ったことがないからだ
私が幸せになることで、他人も幸せになればいいとは思う
でも誰かが私に助けを求めても、私には助けることはできない
自分を助けられるのは自分しかいないからだ
だから私にできるのは余裕のある自分でいることだ
自分にゆとりがあると、人の話を真剣に聞くことができるし、その人が自身を助ける手助けができるかもしれない
何もできない無力な私でも、生きていたら誰かの役に立っているかもしれない
人の助けになりたい人は多いと思う
でも自分を粗末にしていては人の助けにはなれない
自分を救うことはできる
全ては自分が引き起こしたことなのだから
今の生活の中で何かできていると思えることがあればいいのに
私には何もできないような気がする
本当は仕事もしたい
でも私はわがままだから、なまけものだから、働きたくないのだ
働く能力がないのだ、たぶん生まれた時から
私にはできないが、それでも時間は過ぎていく
できないことをあげるときりがないが、それでも時間は過ぎていく
できることに目を向けて、前向きに生きていこうと思っても、同じように時は過ぎる
何をしてたって時間は過ぎて、死に向かって歩いているのだ、私達は
いずれ終わるこの人生でいったい私に何ができるというのだろう
何かを残せるだろうか
人の中に残せる何かができれば、私は幸せかもしれない
最近の幽霊さんですが、一時おさまっていた足の揺れがまたでてきています。これは薬の副作用などではなく、幽霊さんに震わされている感じがするのです。それに加えて、寒い時には全身をガクガク震わされます。これも寒いから震えてるのとは違って、幽霊さんに震わされている感じがするのです。さらにときどき顔が変な表情になったりします。自分では動かしてないのに、勝手に顔が動くのです。幽霊さんがいるのもあと少し、あと少しと言い聞かせて、毎日を過ごしています。